名護聖ヨハネ教会 Nago St. John Church

教区主教 ダビデ 上原栄正   司祭 ドミニカ朴美賢
沖縄県名護市東江1‐1‐12 1-1-12Agarie, Nago,Okinawa
☎ 0980‐52‐2242(Fax兼用) 

叫ぶ者の声

キリストがもたらした平和

2015年04月13日 23:14

(2015年日本聖公会沖縄教区時報に乗せられた文)

ユダヤ人たちを畏れていた弟子たちはエルサレムにとどまることができず、あちらこちらに散ずることになりました。その内二人の弟子はエマオという村へ向かい、ほかの弟子たちも女の人たちを通してイエス様の復活のお話を聞いたにも関わらず、家の戸にカギをかけて隠れていたことは弟子たちがおかれていた状況を表しています。

それは見えない神、また見えなくなったイエス様に対する信頼と信仰とが崩れてしまったからでしょう。誰も自由に入ることのできない、差し固められた扉が彼らの状態を表すものでありました。その真ん中にイエス様は現れたのです。それには弟子たちの許可などはいりませんでした。“あの…わたしイエスなの、入れてもらえるかな?”と聞くこともありませんでした。復活したイエス様は固い石壁を通りぬかれて弟子たちの真ん中に現れ、弟子たちに平和の挨拶をされました。

 

この個所を黙想するうち、クリスチャンによく知られているある画が思い出しました。イエス様が扉の外側に立っておられる画ですが、その扉には取っ手がないと言われます。インタネットで調べたところ、確かにその画には取っ手のない扉の前に立ち、困っているような顔をしたイエス様の様子が描かれていました。“只今復活して帰ってきたけど、開けてくれないの”というお顔でした。しかしルカによる福音書第24章のイエス様は悩みもされず、何も聞かずに弟子たちがいた部屋の真ん中に現れたのです。そして、不安に震えていた弟子たちに向かって彼らの記憶に深く残る挨拶をされました。“あなた方に平和があるように。”当時弟子たちは生き返ったイエス様を見ても信じることができず、恐れおののき、幽霊を見ていると思っていたとルカは記しています。そこでイエス様は手と脇腹に鮮明に残っている傷跡をお見せになり、さらに焼いた魚一匹を彼らの前で食べられました。

これらのことすべては、生き返ったご自身のことを弟子たちに示された出来事として聖書に記され、わたしたちにまで伝わってきたものです。

 

それでは、その時イエス様がお与えになった平和とは一体何でしょうか。不安がなくなることなのでしょうか。‘イエス様は確かに普通の人間ではなかった、神であった。だからそのイエス様を信じる自分はこれから何があっても大丈夫なんだ’のような確信や希望、喜びなのでしょうか。弟子たちはそれで満足したかもしれませんが、今を生きているわたしたちにおいては一体どのような平和があたえられたのでしょうか。また私たちはどのような平和を味わっているのでしょうか。

 

イエスキリストは、弟子たちだけではなく聖徒である私たちにもご自身の平和を与えてくださいました。しかし、実際の私たちの毎日はとても不安定で、小さな苦しみや、大した事でもないことで怒ったり、いやな気持になったりして心の平安を失う場合が少なくありません。さらにこの世は毎日のように戦争やテロが続いています。ナイジェリアではイエスを信じていることで若いクリスチャンたちが殺されました。ただ、私たちの身近なところではそのような悲惨なことが起こっていないだけであって、もしその真ん中に自分がいるなら、心の平和などは吹っ飛ばされてしまい、もしかしたら信仰そのものも失うかもしれません。ですからイエス様が与えようとして平和はそのような心の平安ではないのです。いつでもなくなるような平和ではないのです。その平和はシャローム、エイレネの平和、神様とわたしの間の平和なのです。贖いの子羊による、神様と罪人との間の平和なのです。切り離されたものが再び接木されるものです。ブドウの木に枝が接木されることなのです。永遠に死ぬことに定められたものが生きるものになる、しかも神様と永遠に生きるものとなることなのです。それこそ、イエスのみもたらすことができる平和なのです。

イエス様の復活がどうして聖徒たちの喜びなのでしょうか。それはイエスキリストに対するすべての予言が成就され、そのイエスの中にいて共に死んで共に復活した聖徒たちに平和が与えられたからなのです。わたしたちはイエスの中にいて共に死んで共に復活した聖徒なのです。

“わたしは神に対して生きるために、立法に対しては立法によって死んだのです。わたしはキリストと共に十字架につけられています。”ガラテヤ書第2章19節

二つの疑問点、平和と赦し

2015年04月10日 00:23

2015年復活節第主日の箇所

使徒書3:12a、13-15,17-26

Ⅰヨハネ 5:1-6

ヨハネ 20:19-31           

イエス様が弟子たちの間に現れて、最初に言われた挨拶は“あなた方に平和があるように”ということであった。ではその平和とは何か?心の不安がなくなることなのか?ユダヤ人たちが怖くて不安に陥った弟子たちの心が冷静になることなのか。死んだイエス様が生きて戻ってきたから安心しなさいということなのか。

しかしそれだけで終わっていない。引き続き次のようなことを言われた。“父がわたしをお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす”

父がわたし(イエス)をお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。

父がイエスを遣わしたことの目的とは?またイエス様が私たちを遣わして得ようとすることは何か。この二つが一致するものなら、それは“赦し”のことである。

 この赦しということをイエスキリストが人間として来られ、その生涯を通して(十字架での死と復活)成し遂げられたとするなら、私たちが、聖霊の降臨によって、キリストのおられる教会となったのはこの赦しの為であったことが明らかになる。

 それでは聖徒において赦すことの意味は?23節:誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でもあなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。

このような誰の罪でも赦すことができるものは? 22節を見ると聖霊を受けた人々。つまり、聖霊を受けた人々(聖徒)だけに与えられたことになる。“聖霊を受けなさい”

 このように聖徒において赦すこととは一体どういうことなのか。また赦さなければ、赦されないまま残るということはどういう意味なのか。

クリスチャンが自分のものを盗まれたり、または自分の権利や自由を奪われた場合、その加害者を赦せば、彼の罪が赦されるということなのか。またその人をクリスチャンであるあなたが赦さなければ、彼の罪は赦されないまま残るということなのか…またこの箇所に出ている罪とは道徳や倫理的な罪のことなのか。

聖霊を受けて平和を取り戻して、赦す人を赦しなさいというイエス様がおっしゃられた、この平和と赦しとはどういうことなのか。

聖書のすべての物語りは有機的、漸進的また模型論的ものである。

創世記を始めヨハネの黙示録まで、イエスキリストと恵みの救いについてのことだけが書かれている。

その意外のものは一切ない。

神様のみ国がどのような方法で成し遂げられていくのか、それを見極めることこそ、わたしたちが聖書を読み、礼拝を捧げ、信仰生活をする目的である。

人間の堕落、救いの約束、イエスキリストを原型とする数多くの模型の物語(モーセ、士師記の士師たち、ルツ、ダビデ、イザヤ、エリヤ、洗礼者ヨハネ…)を通して、人は何を学ぶべきなのでしょうか。

また、わたしとあなたは聖書を通して何を得ようとしているのでしょうか。

오순절=칠칠절(7x7), 맥추절

5가지 제사(소제, 번제, 속죄제, 화목제, 요제)를 드림

*출애굽기를 보면 출애굽한 후 50일이 지난 시점에 모세가 시나이산에서 하느님께로 부터 계명을 약속 받는다.

 

성령강림일로서의 오순절

새로운 계명의 등장, 성령(모세의 10계명으로 대표되는 율법의 완성으로서의 성령)

 

韓国語の聖書では‟先生、わたしたちが(は)イエスにお目にかかりたいのです”と訳されているこの箇所は司祭として働いている私に大きな意味を持っています。

毎主日、礼拝の司式と説教をしているものとして、熱心に教会に来られた主の愛する聖徒の方々に何を伝えればよいのでしょう。

この世の知恵や、生き方、倫理的教え、人生の様々な問題の解決方法、これからの人生のために何をすれば夜豊かな生涯を送ることができるのかなどなのでしょうか?

決してそうではないありません。

聖書はイエスのことだけを語っているが、なぜ今の教会はそのイエスを用いてほかのものを満たそうとしているのではないでしょうか。

自分の人生を豊かにしたいなら、良い本を読んだほうが早いでしょう。人生を豊かにする7つの法則とか、子育てのキーワードとか、そういうものなら書店にもたくさん並んでいるのではないでしょうか?

多くの人々が自分の人生を豊かにしたいという夢をもって教会に来ています。正しい人生を送りたいという夢、或は幸せな人生を送りたいと願って教会に来ています。真理を求めて来ていると思います。だとしたら教会は彼らの要望に応えるために聖書を倫理的教科書、あるいは人生を豊かにする本として用いてはいけないでしょう。

聖書はイエスのことを語っているのに教会の説教台では聞いている人々の耳を満足させようとしているかもしれません。

また信者の側もそのような説教、教えを聞きたがっているのではないでしょうか。

傷のない捧げものであるイエスに頼るしかほかはありません。

 

(この文は沖縄教区時報12月号に載せられたものです)

レ・ミゼラブルを通して見た人の人生

去る11月16日に大阪教区恵我之荘聖タイ教会趙ジョンピル司祭を招いてミュージカルレ・ミゼラブルを通して見る信仰の物語というタイトルの信仰講座がありました。26名の参加者らはどういう講演会かなという顔をして講師の趙司祭を待ちました。主教様の挨拶と祈りをもって始まった講演会は休む時間もない2時間の強行軍でしたが、ミュージカル版レ・ミゼラブルはわき見をすることができなぐらいの感動を与えてくれました。さらに動画の見た後には 聖書と信仰に基づいた趙司祭の優しい説明が加わり(私の説教時間とほぼ同じくらいの15分でした) その理解を深めることができました。

登場人物一人一人の人生の物語、またそこにあった喜怒哀楽を感じつつ時には涙を流し、人に対する神様のみ摂理やその導きを感じさせられました。

特に記憶に残ったのは I dreamed a dream というファンテーヌの歌でした。正確な歌詞は覚えていませんが、大体の内容は“若かった時に私は幸せだった。穏やかな音楽は響き、男たちは甘い言葉をささやいた。しかしある日虎がやってきて、私の夢を引き破り、夢は悪夢に変わった。でも私は彼を待ち続けている。彼が帰って来ることを。しかしここは地獄のようなもの。私の夢は過ぎ去った、永遠に。”でした。結局彼女は悲惨な結末を迎えました。あまりにも印象的でしたので彼女の人生を見て感じたことだけを皆さんと分かち合いたいと思います。

そもそも人間は神様に絶対依存的存在として創られました。すなわち人間は神によって存在するものとして創られたということです。また人間はその神様が共にいらっしゃらなければ、いくら良い心をもってやさしい人であっても、それがその人を義にはならないというのが聖書全体を通じて語られていることです。堕落した人間の体表者であるアダムは不従順によって神様と共にいることができなくなり、エデンの園の東の方へと追い出されてしまいます。言い換えますと神様に絶対依存的存在である人間がその頼るべきところを失ってしまったということです。さらに神で満たされるべきところが空っぽになってしまった人間にはそこ穴を何かで埋め込もうとする性向が生まれました。そしてその穴が埋められれば自分は人間として大丈夫だと思わせるものそれが宗教です。愛やお金、名誉、権力、平安(家庭や会社、学校などのどころでの安楽)を持っていれば自分は人間として大丈夫だと、うまく行っているのだと思い込んでしまうこと、これこそ息をしている人間ならば誰をも持つ宗教性です。しかし人間の存在価値は永遠に変わらない神様でなければ決して満たされることができません。人間は神様のみで満足する者として創られたからです。彼女の歌 I dreamed a dreamは、私に聖書が語る人生の空しさを思い起こしてくれました。人は真の神様を知り(ヘブライ語ヤーダー)、その神様によって説明されなければ、ただ夢を見る者に過ぎないものだということでした。

説教者の責任

2013年12月08日 04:28

ルカによる福音書第17章1,2節

イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」

 

私が罪人の中で最たるものであることを悟らせて下さり、わたしをより誠実なしもべとするために神様は今日も熱心に働かれておられる。主よ私の信仰を増してください。見えないものを堅く信じる者としてください。信仰によって生きる者としてください。

 

クリスチャンの降誕日

2013年12月05日 01:16

クリスチャンが降誕日を迎えて取るべき姿勢

 

少なくとの商店街の雰囲気とは異なるべきではないか。

この世は自分たちとは関係がないとしているキリストイエスの誕生をお祝いの日としている。

 

教会の存在理由は何なのか

2013年11月13日 00:06

イエス様の献身的な生き方を学び、貧しい人々と共に過ごし、もだえ苦しんでいるこの世の中の多くの人々に主の平安を伝えるために。

神様が愛されてお創りなったこの世界の環境を守るために。また戦争のない平和な世界の実現のために。

イエス様の仕える者としての生き方を学び、ほかの人々を仕える者となるために。(謙遜)

社会的弱者のために

 

イエス様の愛を伝えるために…

イエス様の愛を伝えるために…

 

確実にずれている…今の教会は真理を失い、この世の人々からの認められたいと願っている。

イエスキリストではなく、ほかのもので認められたいと又はアピールしたいと思っている。

善い行い、平和運動、反戦運動、性的少数者や社会弱者の味方となって、

権力者たちと戦うことで教会の使命を果たしたと満足しているのではないか。

 

イエスキリストを前面に出さない方がいい、罪のために命をささげたとの話は聞いている人にとっては非常に負担になる。

ただイエス様の愛を学び、経験した私たちはその愛だけをこの世に広げるべき…

 

 

 

名護ヨハネ教会は日本聖公会沖縄教区に属する教会です。現在毎週日曜日の午前10時30分に聖餐式を捧げています。礼拝では洗礼を受けた方なら陪餐に与ることができます。まことの福音、イエスキリストを通してこの世に明らかにされた神様の赦しとみ摂理を共に分かち合い、また神の国に入るその日まで互いに励まし会い歩んで行くことを切に祈ります。

重要なお知らせ

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