名護聖ヨハネ教会 Nago St. John Church

教区主教 ダビデ 上原栄正   司祭 ドミニカ朴美賢
沖縄県名護市東江1‐1‐12 1-1-12Agarie, Nago,Okinawa
☎ 0980‐52‐2242(Fax兼用) 

今週のみ言葉

一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によってすべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
あなたたちの子孫が『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねる時は、こう答えなさい。これが主の過越しの犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエル人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのであると。/ 民はひれ伏して礼拝した。
しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。 実にアダムは、来るべき方を前もって表すものだったのです
私の愛する人たち、いつも従順であったように、私が共にいる時だけでなく、 いない今もなおさら従順でいて、 恐れおののきつつ、自分の救いを達成するように務めなさい。 あなたがたの内に働いて、み心のままに望ませ、 行わせておられるのは神であるからです
ローマ書第9章 13節~16節 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてある通りです。では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。神はモーセに、「私は自分が憐れもうと思うものを憐れみ、慈しもうと思うものを慈しむ」と言っておられます。従って、これは人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです
創世記第6章 5節~8節 主は地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけではなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらのことを創ったことを後悔する。しかしノアは主の好意を得た。
  もし彼が(アブラハム)行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。(4節省略)不信心な者を義とされる方を信じる人は、働かなくても、その信仰が義と認められます。
人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。 信仰の法則によってです。なぜなら、私たちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
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名護ヨハネ教会は日本聖公会沖縄教区に属する教会です。現在毎週日曜日の午前10時30分に聖餐式を捧げています。礼拝では洗礼を受けた方なら陪餐に与ることができます。まことの福音、イエスキリストを通してこの世に明らかにされた神様の赦しとみ摂理を共に分かち合い、また神の国に入るその日まで互いに励まし会い歩んで行くことを切に祈ります。

重要なお知らせ

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今週のみ言葉はその主日の説教と繋がっていますので、是非その週の説教をお聞きになった上でお読みくだされば幸いです。