2015年復活節第主日の箇所
使徒書3:12a、13-15,17-26
Ⅰヨハネ 5:1-6
ヨハネ 20:19-31
イエス様が弟子たちの間に現れて、最初に言われた挨拶は“あなた方に平和があるように”ということであった。ではその平和とは何か?心の不安がなくなることなのか?ユダヤ人たちが怖くて不安に陥った弟子たちの心が冷静になることなのか。死んだイエス様が生きて戻ってきたから安心しなさいということなのか。
しかしそれだけで終わっていない。引き続き次のようなことを言われた。“父がわたしをお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす”
父がわたし(イエス)をお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。
父がイエスを遣わしたことの目的とは?またイエス様が私たちを遣わして得ようとすることは何か。この二つが一致するものなら、それは“赦し”のことである。
この赦しということをイエスキリストが人間として来られ、その生涯を通して(十字架での死と復活)成し遂げられたとするなら、私たちが、聖霊の降臨によって、キリストのおられる教会となったのはこの赦しの為であったことが明らかになる。
それでは聖徒において赦すことの意味は?23節:誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でもあなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。
このような誰の罪でも赦すことができるものは? 22節を見ると聖霊を受けた人々。つまり、聖霊を受けた人々(聖徒)だけに与えられたことになる。“聖霊を受けなさい”
このように聖徒において赦すこととは一体どういうことなのか。また赦さなければ、赦されないまま残るということはどういう意味なのか。
クリスチャンが自分のものを盗まれたり、または自分の権利や自由を奪われた場合、その加害者を赦せば、彼の罪が赦されるということなのか。またその人をクリスチャンであるあなたが赦さなければ、彼の罪は赦されないまま残るということなのか…またこの箇所に出ている罪とは道徳や倫理的な罪のことなのか。
聖霊を受けて平和を取り戻して、赦す人を赦しなさいというイエス様がおっしゃられた、この平和と赦しとはどういうことなのか。