今週の黙想のポイントは再臨、主の御国の到来とした。
教会歴において最後の主日、そして次週は降臨節が始まる。
イエスキリストの初臨と再臨のことを覚えさせるにふさわしい配置だと思った。
イエスキリストは死ぬために来られた。目的はそれだけだった。また死ななければすべての人間に対する罪の赦しは成就できなかっただろう。死があったため復活があって、まことの王として再び来られることができる。
このイエスキリストの死、また復活、再臨こそすべての教会の信仰そのものである。
キリストは死ぬために来られ、その願い通りに死なれた。教会はこの犠牲のささげものの上に成り立ったものである。
しかし、今の教会は死のうとしない。罪に対して、この世に対して死のうとしない。
生きようとする、もっと繁栄したい、この世でたくさんの福をいただいて、それで神様が生きておられることを証したいと、たくさんの財産があり、子供が良い大学に入り、健康になり、試練のない人生の夢を見ている。
イエス様に従います。と言いながら、全く反対のほうに向かって歩いている。
キリスト教は宗教ではない。
宗教はこの世での幸せを求めるものである。身の安全、家族の成功、物質的祝福を求める。神を利用し、これくらいあなたに献身しているから、それにふさわしい祝福を与えるのは当然なことでしょうとする。これがまさに宗教である。
だが、教会はそのような教理を教えるはずがないのに、熱心にこの世での何かを求めようとしているのではないか。
政治を変えよう、国を変えよう、人権を変えよう、と様々な取り組みをしている。だがそれでこの世が本当に変わると思っているならばそれはイエスキリストの死と犠牲の歩みはなんの意味があるだろうか。
その方は失敗するために、迫害するために、死ぬために来られた。これだけを覚えよう。
この世に希望をもって長生きしようとしなかった。この世で繁栄しようとしなかった。パウロの、ペテロも弟子であったすべての信仰の先人たちがそうだった。
今、ここで私は何を願い求めなければならないのだろうか?
それは主の再臨だけである。