韓国語の聖書では‟先生、わたしたちが(は)イエスにお目にかかりたいのです”と訳されているこの箇所は司祭として働いている私に大きな意味を持っています。
毎主日、礼拝の司式と説教をしているものとして、熱心に教会に来られた主の愛する聖徒の方々に何を伝えればよいのでしょう。
この世の知恵や、生き方、倫理的教え、人生の様々な問題の解決方法、これからの人生のために何をすれば夜豊かな生涯を送ることができるのかなどなのでしょうか?
決してそうではないありません。
聖書はイエスのことだけを語っているが、なぜ今の教会はそのイエスを用いてほかのものを満たそうとしているのではないでしょうか。
自分の人生を豊かにしたいなら、良い本を読んだほうが早いでしょう。人生を豊かにする7つの法則とか、子育てのキーワードとか、そういうものなら書店にもたくさん並んでいるのではないでしょうか?
多くの人々が自分の人生を豊かにしたいという夢をもって教会に来ています。正しい人生を送りたいという夢、或は幸せな人生を送りたいと願って教会に来ています。真理を求めて来ていると思います。だとしたら教会は彼らの要望に応えるために聖書を倫理的教科書、あるいは人生を豊かにする本として用いてはいけないでしょう。
聖書はイエスのことを語っているのに教会の説教台では聞いている人々の耳を満足させようとしているかもしれません。
また信者の側もそのような説教、教えを聞きたがっているのではないでしょうか。
傷のない捧げものであるイエスに頼るしかほかはありません。