名護聖ヨハネ教会 Nago St. John Church

教区主教 ダビデ 上原栄正   司祭 ペテロ 高良孝太郎
沖縄県名護市東江1‐1‐12 1-1-12Agarie, Nago,Okinawa
☎ 0980‐52‐2242(Fax兼用) 

名護ヨハネ教会は日本聖公会沖縄教区に属する教会です。現在毎週日曜日の午前10時30分に聖餐式を捧げています。礼拝では洗礼を受けた方なら陪餐に与ることができます。まことの福音、イエスキリストを通してこの世に明らかにされた神様の赦しとみ摂理を共に分かち合い、また神の国に入るその日まで互いに励まし会い歩んで行くことを切に祈ります。

重要なお知らせ

人事異動について

2017年04月08日 23:48

2017年3月31日付でイザヤ金汀洙司祭は沖縄市島袋諸聖徒教会に転勤されました。

2017年4月1日付でペテロ高良孝太郎司祭が赴任されました。

両司祭様のためにお祈りくださるようよろしくお願い致します。

 

2017年4月8日 23時50分 諸聖徒教会の司祭室で イザヤ 金汀洙司祭

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聖書日課

申命記30:15-20

二つの選択肢

フィレモン1:1-20

オネシモを仲間として見なしてください

ルカ14:25-33

親類を、さらに自分の命まで憎む者

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今週の説教

主の平和。 2013年4月から2017年の3月までの4年間日本聖公会沖縄教区名護聖ヨハネ教会の司祭として務めさせていただきありがとうございました。 今年の人事で4月1日より沖縄市島袋諸聖徒教会に転勤す
主の平和。 神様のみ言葉によって支えられている聖徒の皆様に主のみ名によってご挨拶致します。 ヨハネ教会では、毎週主日礼拝で宣べられている説教をこの3年間アップして参りました。 説教のするものとして、最
主の平和。 今週の説教は録音ができなかったため、休ませていただきます。 原稿にちょこっと手を加えてアップ致しますので。しばらくお待ちくださるようお願い申し上げます。   また、来週から始まり
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叫ぶ者の声

キリストがもたらした平和

2015年04月13日 23:14
(2015年日本聖公会沖縄教区時報に乗せられた文) ユダヤ人たちを畏れていた弟子たちはエルサレムにとどまることができず、あちらこちらに散ずることになりました。その内二人の弟子はエマオという村へ向かい、ほかの弟子たちも女の人たちを通してイエス様の復活のお話を聞いたにも関わらず、家の戸にカギをかけて隠れていたことは弟子たちがおかれていた状況を表しています。 それは見えない神、また見えなくなったイエス様に対する信頼と信仰とが崩れてしまったからでしょう。誰も自由に入ることのできない、差し固められた扉が彼らの状態を表すものでありました。その真ん中にイエス様は現れたのです。それには弟子たちの許可などはいり
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聖書の黙想

二つの疑問点。平和と赦し

2015年04月10日 00:19
2015年復活節第主日の箇所 使徒書3:12a、13-15,17-26 Ⅰヨハネ 5:1-6 ヨハネ 20:19-31            イエス様が弟子たちの間に現れて、最初に言われた挨拶は“あなた方に平和があるように”ということであった。ではその平和とは何か?心の不安がなくなることなのか?ユダヤ人たちが怖くて不安に陥った弟子たちの心が冷静になることなのか。死んだイエス様が生きて戻ってきたから安心しなさいということなのか。 しかしそれだけで終わっていない。引き続き次のようなことを言われた。“父がわたしをお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす” 父がわたし(イエス)をお遣わしになった
聖書のすべての物語りは有機的、漸進的また模型論的ものである。 創世記を始めヨハネの黙示録まで、イエスキリストと恵みの救いについてのことだけが書かれている。 その意外のものは一切ない。 神様のみ国がどのような方法で成し遂げられていくのか、それを見極めることこそ、わたしたちが聖書を読み、礼拝を捧げ、信仰生活をする目的である。 人間の堕落、救いの約束、イエスキリストを原型とする数多くの模型の物語(モーセ、士師記の士師たち、ルツ、ダビデ、イザヤ、エリヤ、洗礼者ヨハネ…)を通して、人は何を学ぶべきなのでしょうか。 また、わたしとあなたは聖書を通して何を得ようとしているのでしょうか。
マタイによる福音書第24章からはこの世の終末についてのキリストのお言葉が続きます。 たとえ話としては4つの話が用いられています。 それは良い僕と悪い僕、10人の乙女、タラントンのたとえ、すべての民族を裁くとのたとえです。 四つのたとえ話共に良い者とされた人々と悪い(不忠実)ものとされた人々が出てきます。   ”だから良い者として分けていただけるように頑張りましょう”とい教訓が語られているわけですが、 一体だれが良い者として分けていただけるのに相応しいものなのでしょうか。 皆様は、自分の努力ヤ行いをもって神様に認めてもらおうとされているのでしょうか。それともこの世の人々に認めてもらおう
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